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やきものの歴史 <室町末期〜桃山時代 ・江戸前期〜中期> <江戸前期〜後期>

<殖産の窯業・藩窯>藩窯の多くは、江戸時代後期に、窮乏した藩財政を立て直すための殖産興業策によって生まれた。江戸時代後期になると、大量の伊万里焼や瀬戸焼などが全国に流通し、各地で消費されていた。藩窯は、流入する他藩産の陶磁器に代わって、自藩でその生産をおこない、さらにはこの生産体制を強化して、他藩へ輸出して藩の財源とするために開かれたのである。
 藩窯は藩が経営し、藩が職人に資金を支払い、製品は藩に納め、藩で販売するというのが典型的スタイルである。しかし、その経営のありかたは藩によって異なり、ひと口に藩窯といっても、その性質はさまざまであった。
 藩窯の多くが、殖産興行策として開かれたが、藩内外に販売する日用食器類を焼くなかで、藩主が贈答などに用いる高級品を焼く御用窯的存在もあった。ひとつの藩窯が、そうした異なる性質を、ともにそなえている例も多くある。
 藩窯の成り立ちにおいて、特殊な一群がある。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役・1592〜98年)において、朝鮮半島に侵攻した西国の大名たちは、多くの陶工を日本に連れ帰った。その朝鮮の陶工によって始められたのが、萩焼(毛利・萩藩)、高取焼(黒田・福岡藩)、上野焼(細川・小倉藩)、八代焼(細川・熊本藩)、平戸焼(松浦・平戸藩)、薩摩焼(島津・薩摩藩)の各藩窯である。
 当時、さかんであった茶の湯では、室町時代に尊重された唐物に代わり、高麗茶碗がもてはやされていた。大名たちは、朝鮮の陶工の技術によって、この高麗茶碗の写しを自国の藩窯で焼くことを試みたのである。
 江戸時代の早くに始まったそうした藩窯では、藩主の命によってすぐれた茶陶を製作するいっぽうで、食器などの日用品も生産した。そしてこれらはその成り立ちゆえ、殆どが陶器を生産し、明治の廃窯まで続く息の長い窯となった。
<各地の磁器生産>
 磁器生産を17世紀に開始し、これを江戸時代を通じて本格的におこなったのは、有田および波佐見をはじめとする肥前地域(佐賀・長崎)のみで4あった。肥前は長らく磁器生産を独占し、国内外に生産を行きわたらせ、佐賀藩(鍋島藩)の藩窯、鍋島焼では、磁器の技術の粋を尽くした高級食器が作られた。
 18世紀末から19世紀初頭になると、京都、瀬戸(愛知)、九谷(石川)、美濃(岐阜)、砥部(愛媛)、須恵(福岡)、三田(兵庫)、湖東(滋賀)など、新しい磁器産地が続々誕生した。
 とくに瀬戸で磁器を焼くようになると、豊富な原料と量産の技術によって、廉価な磁器製品が多く出回ることとなり、有田磁器を凌ぐ勢いで各地に広まった。瀬戸の磁器生産開始により、使いやすく清潔な磁器が、庶民の手元まで行き渡ることになったのである。
 また、江戸時代後期に殖産興業策として開かれた藩窯では、その当時すでに行き渡っていた磁器の生産をめざしたところが多い。東北地方では、会津本郷焼(会津藩)や相馬駒焼(相馬焼)など古くから陶器生産をおこなった藩窯があるが、19世紀には切込焼(仙台藩)、山蔭焼(南部藩)など磁器生産を目的とした藩窯が開かれたのである。切込焼では染付磁器のほか、青・紫・白などの多彩釉を掛けた三彩も知られている。また、この頃に会津本郷も磁器生産に転じている。
 ただし、陶器と異なり、磁器生産は高度な技術を必要とするため、生産体制を整えるまでに、施設造営、職人の招聘、育成などのために多くの費用がかかった。そのため、開窯したものの、判の財政がこれをもちこたえることができずに、数年で廃窯となってしまう例も少なくなかった。
 各地の藩窯や御用窯では、すでにすぐれた陶技のある窯場へ人を派遣したり、またそこの職人を招聘したりして技術を学んだ。17世紀に色絵を完成させていた京焼は、京の雅を映し出すものであり、地方の大名達の憧れることろであった。京焼の陶工たちには、欽古堂亀祐のように地方に招かれ、そこで作陶の指導にあたった例が多く見られる。
 さかのぼれば仁清、乾山の時代にすでに京焼は広く影響力をもち、江戸時代後期には青木木米、仁阿弥道八、永楽保全らが、それぞれ、金沢春日山窯、紀州偕楽園御庭焼、湖南焼など多くの窯に赴いて作陶指導をおこない、京焼の技法は日本各地の窯へ広がったのである。
 幕末には各地方に窯が築かれ、さまざまなやきものが焼かれ始めていたが、明治になって廃藩、また、利権をもった窯元が陶工たちを縛る旧体制から、自由な製作、自由競争の時代となり、日本の窯業はその様相を大きく変えていったのである。
<現代>
 明治時代、窯業界の最大の目標にかかげられたのは、海外輸出事業の拡大であり、そのための技術革新、近代化であった。
明治時代初期に来日した欧米人らは、日本の近代化に大きな役割を果たした。そのひとり、ドイツ人化学者ワグネルは、石炭釜や、鮮やかに発色する合成コバルトなどをもたらし、陶技における化学知識を広めた。
 明治のやきものの方向性を決めた大きな要因が、万国博覧会であった。明治政府が初めて公式参加したのは1873年(明治6)のウィーン万博で、ここで日本の陶磁器は好評を得、またこれを機に、数々の工芸技術がもたらされた。
 万国博覧会への出品、輸出を目的として、高い技術で精緻な細工、過度な絵付けを施した明治のやきもの。そのいっぽうで、技術革新による近代化は、日常の食器類の工場制生産を完成させた。
 1900年(明治33)のパリ万博で、西欧の新しい風潮に遅れをとった旧態依然の日本趣味的デザインが批判をうけ、日本陶磁は装飾法の改革を迫られた。そこでパリ万博後、工業学校、美術学校に次々と図案科が新設された。大正時代には、板谷波山が葆光彩磁など新しい装飾法やアール・ヌーボーにヒントを得た意匠を生み、近代陶芸の先駆者となった。
 明治末期から大正期にかけて、やきものの改革が進められ、大正から昭和にかけては個性を尊重する個人作家、すなわち陶芸家という存在が生まれ、活動を開始した。近代西欧の個人主義的思想にもとづいて創作性を重視した富本憲吉、民芸運動の中心にあって素朴で実用的な作品を作った濱田庄司と河井寛次郎らは、大正時代から昭和に始まる新しい陶芸活動の先駆者となった。
 伝統古陶の再評価は、昭和初期の大きな出来事であった。美濃窯跡の調査により志野を発見した荒川豊蔵、中国陶磁の技法を復興し木の葉天目などを焼いた石黒宗麻、唐津の中里無庵、萩の三輪休和、備前の金重陶陽などの努力がある。
 戦後は、陶芸家たちが活発な活動を繰り広げる。そのなかに、器を離れた前衛陶芸、八木一夫らによるオブジェ焼の登場もあった。
 日本のやきものは多様である。現在、作家による陶芸の世界がある一方で、工場では食器類や衛星陶器が大量生産され、粘土を離れたファインセラミックスが研究されている。陶磁器のリサイクルやユニバーサルデザインへの取り組みも、現代やきもの事情の一面だろう。

〜日本やきもの史より

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