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やきものの歴史 <室町末期〜桃山時代 ・江戸前期〜中期>  <江戸前期〜後期>
<美濃焼>
中世に施釉陶器生産の中心であった瀬戸(愛知県)に代わり、桃山時代には美濃(岐阜県)に代わり、桃山時代には美濃(岐阜県)がそれを引き継げ、瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部といった新たなやきものを生産した。「瀬戸」の名がつくのは、昭和初期に美濃の窯跡で志野の破片が発見されるまで、これらは瀬戸産とされていたからである。
 瀬戸黒は、表面全体に鉄釉を施した黒い茶碗である。鉄による黒いやきものは中国天目釉の写しがすでにつくられていたが、その延長にある。その特徴である漆黒の色は、焼成中の高温の窯から引き出して急速に冷却させることで得られる「引き出し黒」。半筒形など従来にはなかった器の形がみられるが、これに作為のある歪みや文様が加わり、黒織部に発展する。
 黄瀬戸は全面に施した、釉がやわらかな黄色に発色して、その表面に細かい気泡が孔をつくった油揚肌が特徴。この黄釉は、鉄をわずかに含んだ青磁系の釉が酸化焔焼成されて生じるもので、中国青磁の模倣をおこなううちに偶然生まれたのが最初だったと思われる。胆礬(たんぱん)とよばれる銅による緑色を、印刻の文様に重ねて散らした向付や碗、鉢などがみられる。
 志野は、たっぷり掛けた長石釉の下に鉄絵を施しており、これは日本における最初の釉下彩技法である。厚みのある白い釉は、ふわりと軽くやわらかい印象をあたえる。白い肌に鉄絵が赤くにじんだ絵志野、逆に文様が白く、まわりが鼠色に発色する鼠志野、そのほか、無地志野・紅志野・練込志野などがある。半筒形を基本にした茶碗、水指、向付などの茶道具のほか、皿、碗などの日用食器類がつくられた。
 茶人古田織部の名を冠した織部焼は、織部釉とよばれる銅緑釉を特徴とし、描かれる幾何学文様、歪みを取り入れた形など、斬新なやきものまである。全体を銅緑釉で覆う青織部、奇抜な鉄絵の絵織部、赤と白の素地の一部に緑釉を掛けて片身替わりとした鳴海織部、鉄絵を施し鉄釉を掛けた黒織部など作風は多岐にわたる。その特異な形状は、ろくろによる円を基本とするそれまでの器の常識を覆し、新しい美の創造がこの近世に行われたことを示している。茶碗、茶入、水指などの茶陶があるが、17世紀初頭の連房式登り窯の導入にともない、食器を中心として、器の種類は多種多様に広がった。それ以前の大窯よりも効率のよいこの窯で、当時、古田織部に代表される茶人の影響をうけた町人たちが望んだ自由な作風の食器が焼かれた。一世を風靡した織部焼だが、江戸時代にはその奔放、奇抜な造形や意匠は次第に受け入れられなくなり、姿を消した。
<中世古窯>
 壺・甕・擂り鉢など日用の焼き締め陶を焼いていた中世の古窯も、桃山時代に入って、生産の様相を変化させた。
 備前焼(岡山県)は茶道具の生産もおこなった。焼成技法によって窯変、伊部手、緋襷と作風を広げている。箆目や大胆な歪みを加えた造形も、中世古窯のなかでは特殊なものである。信楽焼(滋賀県)でも甕・壺・擂り鉢という日常の器のほか。茶入、水指などの茶道具が焼かれた。とくに山ひとつで隔てた伊賀焼では、茶道具の名品が知られている。そのほか、丹波では花入、水指などの茶道具の生産がおこなわれたが、常滑、越前ではそうした傾向はほとんどみられない。
<楽・唐津>
 近世の新しいやきものの誕生は、京都にもあった。天正年間(1573〜92年)に始まった低火度焼成の鉛釉系陶器である。そのひとつが千利休の注文によって長次郎が作った楽焼で、これはろくろを使わない手捻りによる成形が独自である。釉の色は黒と赤、まれに白釉がある。器の種類は茶碗を基本とする。長次郎を初代とし、代々千家と密接な関係を結び、楽焼御茶碗師として当代で15代を数える。
 また楽焼以外にも、京には軟質の施釉陶器があり、これは緑、黄、褐色の釉が施された皿、鉢などの食器類である。
 新興の施釉陶は、伝統的な窯場をもたない九州にも誕生した。秀吉の命により朝鮮半島へ出兵した九州・中国地方の大名は、多くの陶工を連れ帰ったが、彼らに窯を築かせ陶器の製造を始めたのである。北九州の広い範囲に窯跡のある唐津焼は、この朝鮮出兵以前から開かれた窯のあることが知られているが、活動が活発となったのは、これ以降である。
 唐津は、東日本の美濃窯と同様、朝鮮半島の技術を導入して築いた連房式登り釜により、良質な陶器の大量生産をおこない、また運搬のための海路にも恵まれ、その商品のおよぶ範囲を広げていった。高麗茶碗を写した茶陶の名品が知られるが、皿、碗などの食器類を大量に生産した。技法は多岐にわたり、奥高麗、斑唐津、三島唐津、絵唐津、朝鮮唐津、彫唐津、蛇かつ唐津、二彩唐津などに分類される。
 なお唐津のほかに、九州・中国地方でこの時代に成立し、発展した窯としては、萩窯、上野窯、高取窯、薩摩窯などが知られる。唐津と同様に、これらの窯でも日常の施釉陶と、茶碗などの茶陶を焼いている。

<江戸前期から中期〜磁器全盛>

<初期伊万里>
 日本に磁器が誕生したのは、17世紀の始め、現在の九州佐賀県有田町である。磁器窯は突然発生したのではなく、その母体として唐津窯があり、すでにもたらされていた中国磁器への憧れと、朝鮮半島から導入された技術が磁器を生んだのである。
 有田で焼かれた磁器は、伊万里の港に運ばれ、そこから船に積まれて各地へ運ばれ、そこから各地へ運ばれていた。そのため、大阪や京などの消費地では伊万里焼と呼ぶようになる。
 初期の伊万里焼に描かれるのは、中国磁器や絵画を手本とした中国風の文様。素地は厚みがあり、鉢などは口径に対して高台が極端に小さいのが特徴。染付の発色は不安定で、素地の色も青、灰色がかっている。素焼きを行わないため、裏面に施釉の際の指跡が残っているものが多い。いわば技術の未熟さを残す磁器だが、未完成ゆえの素朴さと温もりが大きな魅力で、また18世紀以降の完成され画一化されたものと比べ、これら草創期の造詣や絵付には力強さがある。
 17世紀の半ばに、有田窯場は次々と新しい技術を導入して製品の様相も大きく変化するのだが、この変化以前のものを初期伊万里とよぶ。
<古九谷様式>
 17世紀半ばの技術革新のひとつが色絵の創始である。有田では1640年代に磁器の上に赤・黄・青・緑の色をのせる技法が始まった。また、京都でも同時期に、陶器に色絵が施される技法が完成されている。
 色絵の技術は、有田の陶工、酒井田喜三右衛門が、中国人からの長崎の商人を経て伝え聞いた技術をもとに試行錯誤し、その焼成に成功したのがはじめといわれている。この喜三右衛門が初代柿右衛門といわれ、代々有田の代表的陶家として、その名を知られるようになる。
 最初に焼かれた色絵は、中国、景徳鎮窯の天啓赤絵などを手本にしたもの。染付で丸文などを描き、その上に色絵を施している。古九谷様式の祥瑞手(しょんずいで)や五彩手とよばれている。
 古九谷様式の色絵の特徴は、緑・黄・紫などの濃厚な色彩。特に大きな皿の表面に、余白をほとんど残さずに文様を描いた青手タイプは、古九谷様式を代表するものである。これと、中国絵画や幾何学文様を用いたデザインの五彩手・祥瑞手を含めて、その独自の美意識が、古九谷様式の魅力となっている。
 17世紀中頃に始まった輸出事業の拡大にともなって、色絵の様式は暗く濃厚な色彩から、地文に赤を多く用いたものへと変化し、さらには瀟洒な柿右衛門様式の成立を向かえ、古九谷様式は1660年代には姿を消すこととなる。
<柿右衛門様式>
 17世紀、中国では明からし清への政権交代のため国内の混乱が生じた。このため、中国磁器をヨーロッパへもたらし巨大な利益を得ていたオランダ東インド会社は、中国磁器の代用品を伊万里に求め、そのため大量の伊万里がヨーロッパに運ばれた。
 ヨーロッパでは当時、シノワズリー(中国趣味)が流行しており、日本製の輸出磁器も最初は中国にならったものだったが、徐々に独自のスタイルを確立し、1670年代から80年代にかけて完成されたのが、柿右衛門様式である。
 柿右衛門様式は、その乳白色の磁肌が特徴。それは濁し手とよばれ、上にのせる赤・緑・黄などの色を美しく見せるために開発された色絵用の素地である。そしてその白をゆったり広く残すような非対称の文様構成も特徴のひとつ。明るい赤色を用いて描かれた花鳥文や、草花文など、華やかで軽やかな文様の柿右衛門様式の壺・瓶・皿は、ヨーロッパで愛好され、18世紀に誕生したドイツのマイセンをはじめとするヨーロッパ磁器に大きな影響を与えた。
<金襴手>
 元禄年間(1688-1704)には、柿右衛門様式の色絵用の白い素地ではなく元禄年間(1688〜1704)には、柿右衛門様式の色絵用の白い素地ではなく、青みがかった染付素地の上に色絵を施す染錦もつくられるようになる。さらにこの上に金彩を施す金襴手は、華やかな元禄文化を象徴するもので、こののち、伊万里を代表する技法として支持され、つくり続けられる。 
 染錦や金襴手は海外でも需要が高まり、新しい輸出製品として柿右衛門様式に代わるものとなる。青・赤・金で彩られた直径50cmもある大皿や、人の背ほどの蓋付き壺は、ヨーロッパ貴族の館の居間を豪華に飾った。
 一方国内向けの金襴手には、献上手ともよばれ、荒磯図、赤玉雲竜文、吉祥文などが描かれている上等な鉢などがある。
<染付の変遷>
 伊万里焼の大多数を占める染付も、色絵と同様、17世紀のうちにめざましく発展した。素朴さのあった初期伊万里から、17世紀半ばの技術革新を経て、素地は薄く、造詣はシャープに、描かれる染付の線も精緻なものへと変化した。これらを寛文様式とよぶ。
 寛文年間(1661〜73)を経て延宝年間(1673〜81)に入ると、その技法はさらに発展し、染付の線はより細く精緻になり、濃みは濃淡を自由に表現できるようになる。いわば染付技術の完成である。これを延宝様式とよぶ。この時期、色絵では柿右衛門様式が完成している。
<鍋島焼>
 
有田を領有する鍋島藩の藩窯は、17世紀半ばに有田の岩谷川内に開かれたといわれ、後に伊万里市大川内山に移り、さかんに活動した。ここでは領主の調度品や、献上・贈答用の高級食器がつくられた。これが鍋島焼である。技術は伊万里焼と同様だが、採算を度外視し、最高の技術が用いられた。
 そのほとんどが同形の皿で、サイズも規格化され、七寸(約21cm)のものが中心である。見どころはその文様。中国の文様、染織品の雛形本、植物図譜などからモチーフを広く求め、それをデザイン化して器にのせる。染付と青磁との併用、墨弾きなどの技は、伊万里にもみられるが、こうした新しい流行を積極的に取り入れ、洗練し、美しい食器をつくりだした。
<江戸時代後期の伊万里>
 18世紀以降は、金襴手のような高級品をつくるいっぽう、その高度な技術は量産に向けられた。輸出事業が下火となり、新たに国内の需要を求めたものである。丈夫で白く清潔感のある磁器は食器として好まれ、凝った意匠の高級食器から蕎麦猪口までが生産された。
 19世紀には、瀬戸をはじめ各地で磁器窯が開かれて、磁器生産を伊万里が独占した時代は幕を閉じるのである。
<京焼の繁栄〜光悦>
 桃山時代、京都の町衆に茶の湯が流行し、茶道具を所持することへの憧れが生じて、これが都に突如として窯が開かれる大きな要因となった。最初に焼かれたのは、楽茶碗を含む軟質施釉陶である。この楽茶碗づくりに、桃山時代の芸術家、本阿弥光悦が手を染め、白楽茶碗「不二山」(国宝)のほか、数々の名碗を残した。刀剣の鑑定を家職とする光悦は、やきものづくりはいわば素人であり、その茶碗は陶工の作とは性質を異にする。作者の意志が強くあらわれた「作品」として、特異な存在である。
 小規模な窯による軟質施釉陶生産で始まった京都のやきものだが、江戸時代に入って東山山麓を中心に窯が開かれ、寛永年間(1624〜44)には粟田口、八坂などの窯で、当時さかんに焼かれた美濃、唐津と同様の本格的陶器生産が行われる様になった。これらは京焼とよばれ、茶入や茶碗、唐物写し、高麗写しの茶道具が主に焼かれた。
<仁清・色絵陶器>
 この京焼に大きな変化をもたらしたのが、色絵の完成である。これを手がけたのが、落成仁和寺門前に窯を開き、御室焼を名のった仁清。本名野々村清右衛門、仁和寺の仁と清右衛門の清をとって仁清と称した。色絵の技法は、前からあった軟質陶の色釉の技を改良し、高温に耐える釉を工夫して完成された。「色絵雉香炉」国宝をはじめ、色絵茶壷などの名品が知られている。これは新しくおこった「綺麗さび」の象徴となり、桃山陶に代わる京焼の地位を確立した。
 また、仁清はろくろの名手としても知られている。茶壷、水指、香炉、香合などの茶道具や、色絵以外にも高麗茶碗や信楽の写し、銹絵などにも優品がみられ、その造形は創意工夫が凝らされていて、洗練されている。
<乾山>
 仁清に学んだ尾形深省は、元禄年間(1688〜1704)に京都の洛西に窯を開いた。号を乾山とし、「乾山」と銘うったやきものを世に送り出した。乾山の兄は有名な画家、尾形光琳で、乾山の器には兄・光琳創作によるデザインが取り入れられ、また、光琳みずからの絵付による合作もみられる。この「乾山」焼が誕生した時代は、それまで限られた層の人々による注文生産を主としていた京焼が、幅広い需要者に向けて動きだした時代であり、乾山の作品の主体は茶道具だけではなく、洒落た会席の器であった。
<古清水>
 仁清、乾山などの銘をうった京焼のほかにも、多くの京の窯が都の雅を写した色絵陶器を焼いている。これら無銘の京焼は、のちの清水焼に対して、「古清水」とよばれる。
 京焼は18世紀に磁器生産を始めた。最初に磁器焼成に成功したのが奥田頴川(えいせん)。そして青木木米、仁阿弥道八らが磁器による新たな京焼の系譜を生み出した。磁器生産の中心は清水地域付近であったため、京焼における磁器は、清水焼とよばれるようになった。


日本やきもの史より

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