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<中国骨董・古美術>-宋代から現代まで       先史より唐まで

<1はじめに>
一九四九年の中国革命は、ひろい範囲にわたって、しかも根本的な文化上の変革をもたらした。古美術の世界でも、伝統を批判的に継承するとともに、新しい社会体制に適応した、新美術の創造の道をあゆみはじめた。さらには、古典的文化、美術の発見、蒐集についても、大きな収穫をしめした。
 中国の古美術は、大きく概観すると、唐、宋を境として大きな変化がみられる。漢から唐にかけて、貴族的で豪華な文化にいろどられていたのに比べて、宋代以後は、商工業の急速な発展にうながされて、文化を享受する層が、大きく拡張されてきた。それが美術形式にしても、これ以後、美術世界に独立の地位を確立したといえる。また唐代に発生した水墨画が、宋代において、独立の様式となり、以後、中国絵画における大河のような基調となっていったことは、周知のとおりであるが、この水墨画の定着と展開は、そのまま中国文化の民衆化によって裏付けされたものと見ることができよう。
 中国では、宮廷に画院がもうけられ、職業的画家が、宮廷の用をたしたのは唐代以来のことであるが、そのかたわらに、素人の画家、文人の画家が、自由な画境をのぞんで活動し、時代を経るにしたがって、職業的画家を凌駕するようになった。この素人、つまり職業的な画工でないものが、時代の絵画の担い手になってきたということは、この世界が、単に宮廷の画院の専有物でなくなってきたということを意味する。美術は、それが宮廷や貴族に専有されていても、実際には人民の生産に依拠し、それにささえられてきたので、歴代を通じて、しだいに民衆自身が、その狙い手となって、宮廷や貴族の専有から美術を解放するのは必至であった。中国の歴史は、事実で、そのことを示すものである。
 中国美術の歴史において、漢代における石刻画像、北魏から唐代にかけての仏像石窟に示されたような、彫刻の世界は、宋代以後になると、急速に衰えてくる。そして、絵画が、美術の中心的な形式に交替してくる。美術の享受層が拡大してきたこともその理由の一つであろう。絵画の内容という点からいっても、唐以前の絵画はもっぱら装飾と鑑戒を目的として制作されたが、そうした古代的な制約をうちやぶって、唐の中ごろからの自由な、孤立の芸術様式としての山水画を中心とする絵画の道を開拓し、やがてそれを完成したのは、宋以後の文化であった。この趨勢は、絵画の多様で、ゆたかな芸術的価値の昂揚をよびおこし、中国絵画は、世界史的な位置を確定するのであった。
 宋以後の中国美術の、もう一つの柱は、陶磁であるといえよう。陶磁器の歴史も、唐・宋を境にして、大きな変化をよびおこした。宋人が自ら獲得した商工業を背景として、ゆたかな芸術的香気をたたえた陶磁の生産に傾注した情熱は、おどろくべきものであった。われわれは、宋朝の首都?京(今の開封)のにぎわいを、張拓端の「清明上河図巻」(七四・七五頁)にうかがうことができるが、この景況のなかに、あるいは、この民衆生活の活力に支えられて、宋代陶磁は開花したものであった。ここでも官窯とともに民窯が、自由な創意をもって、全国的に分布し、明代以降は、染付、赤絵を創造し、西欧との貿易を通じて、中国陶磁は、世界的な地位を承認されるにいたった。
 一九一一年、辛亥革命は、清朝を倒壊するにいたった。中国人民は、抗日の一五年戦争をたたかいぬいて、長い半植民地のくびきをたちきり、一九四九年、中華人民共和国を樹立した。それによって、中国美術は、社会主義社会に適応した美術創造の歩みを始めた。そこでは、偉大な中国美術の伝統を継承するとともに、それを批判的に摂取し、社会主義建設に積極的な役割を担うことになった。したがって、この目的に適合した国画、版画などをはじめ、あらゆる多様な美術形式が奨励され、発展しはじめた。ひとくちにいって、中国の現代美術は、この国の主人であり、享受者である中華人民に帰したところに、それ以前の美術との根本的なちがいがある。このような変革は、民族的想像力の無限の保証となるものである。
<2.宋・元の骨董・古美術について>
建築 
宋・元の建築を簡単に概説するのはむずかしい。周知のように、1100年に李明仲の著述した「営造方式」という建築技術書があるが、この著作は、唐末にはじまり、五代を経て宋様式の建築が確立してゆく状況を、集大成している。また、さきにふれた「清明上河図巻」をはじめ、?京の記録「東京夢華録」などが、むしろ宋代建築について、具体的なイメージを与えてくれる重要な資料であろう。都城建築にしても、唐様式のそれとちがって、きわめて自由な方式をとったことは、「図巻」によって知ることができよう。宋代は、北方に遼、金の二つの王朝と並行し、その間にたがいに様式の交流をし、元代にいたると、チベット建築を導入している。その他、アラビア建築の影響もみのがすことができない。壇廟建築、明堂建築にも、宋代独自の自由な創意を加えた。これらの背景に、商工業のブルジョワ的発展の萠芽があって、それに支えられて、多様な発展をとげたのであった。
 北宋の河北省定県の開元寺料敵塔は、金に対峙した地に建設されたもので、当時の磚塔の代表的なものの一つである。山西省大原の晉祠聖母殿は、当時の道観の遺構である。その他べん京の国相寺の九層繁塔、河北省正定の龍興寺摩尼殿、江蘇省鎮江の甘露寺塔なども特筆すべき代表的建造物である。
 アラビア建築様式では、広東の懐聖寺の尖塔が、北宋末、南宋初めころに建立されたが、回教寺院の起源は、すでに宋初からはじまっている。チベット風建築では、北京の妙応寺白塔は、その代表的なものの一つであるが、これは、元の世祖が、燕京をひらいたときに創建されたものである。また河北省延慶の居庸関雲台は、この燕京から、さきの首都、上都(開平府)に通ずる関門に建造されたもので、あきらかにラマ化様式をみることができる。山西省?城の永楽宮は、新中国になって、発見、紹介された建造物で、道観建築の代表的なものの一つであるが、さきごろ、日本でも、その壁画模写が展観されて親しい。地域的な関係もあって、この建築は元代道観を知るのに、きわめて重要な資料を提供している。
絵画 宋・元の絵画を考える場合、前代の唐の後半期あたりから成立し始める水墨山水画にふれなければならない。墨による描写技巧の変化と発展は、宋以後の各時代の美術の主流となり、ついに世界的に、中国絵画に特質的な位置を与えることになったからである。水墨山水画は、自然に対する中国人の思想と観照にふかいつながりをもち、それによって対象把握に、独自の肉迫をしめした。そして、絵画の価値評価に、「気韻生動」のような、標準を生み出していったことは周知のとおりである。この「気韻生動(きいんせいどう)」という言葉も、時代によって、その内包する意味を変化させたのであるが、さきにもふれたように、唐以前において、絵画が、装飾と鑑戒に従属していたものを、孤立の芸術形式として解散するための価値意識の表現であったとみるべきだろう。そして、そのような段階で、唐から、しだいに発展した水墨画が宋代に山水画のみならず、花卉雑画をふくめて、独自のものとして確立したのである。元代のすぐれた画家、倪?(げいさん)が、胸中の自然を写すといったとき、すでに水墨画には、自然の忠実な写実と、画家の胸中の自然の表現との、二つの対立した道が、水墨画史のうえで意識されていたことはあきらかである。しかし倪?(げいさん)の作品が、それゆえに主義主張であり、自然の歪曲であったわけではない。かれの理想主義は、むしろ画院を中心とした北宗画の形骸化した伝統主義、硬化した自然観照に対立したのであった。その意味で、水墨画の歴史は、画院のマニエリズム、アカデミズムにいつも抵抗したということができる。
 元来、院体風の絵画は、宮廷の御用絵師の集団として、いい意味で堅牢なアカデミズムを保持した功績はあっても、ともすれば因習になずみ、類型に堕し、伝統を墨守する傾向があった。その意味で、かえってかれらこそ写実主義から離れ、堕落、頽廃してゆくのであった。これに対して、自由な在野の学者、文人の業余作家たちが、多数輩出し、明・清の時代には、文人画が、各地の画壇に支配的になってくるのであった。かれらは、自己の蓄積した学芸によって、自然観照を新たにし、表現の現実性を、絵画の上にとりもどしたのである。もちろん水墨画を中心とした文人画の歴史が、その時々の段階で、主観主義的堕落の危険を、うちにふくんでいたことも見過ごせないが、そのような危険を、つねに、ゆたかな学問と誌的教養によって克服し、中国絵画史に自由と真実の追求のうえで、偉大な功績をのこしたことは、なにびとも承認するところであろう。
 さて宋はいうまでもなく、五代、五十五年間の争乱のあとをうけて成立した統一国家で、首都を河南の?京におき、960年に自立した。そして1126年、金の攻撃によってべん京は落城し、時の欽宋と上皇の徽宗は、金庫に拉致されて、悲惨な最期をとげた。こうして北宋時代はおわり、1127年、首都を臨安(杭州)にうつして、1279年、元王朝に交替するまで、南宋時代が成立するのであった。
 北宋の画壇は、河北の李成、范寛、江南の董源、巨然らが代表する。かれらは、概して時代の空気を反映し、合理主義的表現をとったのに対し、文同、蘇軾(東坡)らは、枯木、竹石の墨画をこころみ、王?、趙令穣らは、唐の王維の古法を復活し、のちの米?とその子米友仁などの、いわゆる米法山水の展開の道をひらいた。これらの画家たちを、のちの水墨画の源流とすることができる。北宋画人には、その他、李光麟や北宋末の帝王画家、徽宗などを見過ごすことができない。
 画家が宮廷に庇護され、その用をつとめることは、歴代王朝の慣習だったが、とりわけ、唐の玄宗、宋の徽宗、芸術を愛し、多くの画家を保護した。玄宗の場合は、はじめて画院を宮廷の機関化した。宋朝では、国初以来、画院が設置されたが、画院では、もっぱら山水画では華北派の画風が、花鳥画では黄氏体(五代の黄筌の様式)がおこなわれた。
 南宋時代にも画院が置かれ、山水画家では李唐、劉松年、馬遠、夏珪らが輩出した。馬遠、夏珪らが、しだいに山水画を観念化、形式化し、画院アカデミズムの頽廃がはじまったのも見逃すことはできない。
 いったい水墨画の一つの要素として、詩画一致ということがある。徽宗が、画院において、詩句をテーマとして与えて、絵を描かしめたという話は、そのあらわれである。詩意の絵画的表現を重視することは、その後の中国絵画の特質となるものであったが、そこでは、絵画の文学化という危険もはらんでいた。しかし、他方では、画家自身の教養として、文学的才能を要求することになり、文人が画筆をもつにいたる積極的な道を展開することになった。画題に、さかんに詩的モチーフが用いられはじめたのは宋代以後のことである。
 南宋では、水墨画が大きく進出し、中国絵画の伝統を確立した。その画家たちは、多く文人、僧侶であり、とりわけ粱楷、牧谿、王澗らがあらわれ、それぞれ独創的な画風によって、画院の形式主義に抵抗した。とりわけ、僧侶画家たちは、無彩の水墨をもって、道釈画を描き、従来の極彩色のそれと対立したこともみのがせない。また南宋の張択端の「清明上河図巻」にみるような、清明節の首都の盛況を、健康な写実で描いた風俗画もあらわれた。
 宋朝に代わって、中原を支配した蒙古人の元朝は、中国文化をうけいれ、美術においても、前朝の大画家、趙孟?(子?)を登用した。子ごうは宋室の出身で、南宋以前の古法の復活をとなえて、南宋の水墨画を否定した。節操において非難を浴びた子ごうは、才腕のある画人であったが、その系列にはしだいに、形式主義的な傾向があらわれた。これに対して、元末の四大家が登場し、絵画における類型主義に反抗し、人間性の回復を唱導した。四大家は董源、巨然の伝統を宗とする一派で、黄公望、呉鎮、倪?、王蒙の四人の在野文人たちである。かれらはいずれも詩文をよくし、自由の精神を横溢させて、画院系と対抗した。かれらによって、いわゆる南宗画が、はっきりしたかたちで、中国画壇に定着したのであった。
陶磁 宋代の陶磁は、既にふれたように、空前の開花期をむかえた。それには、日常の飲食器にもちいられていた漆器、木器にかわって、陶磁の使用が一般化し、その生産が、量質ともに向上したことによる。宮廷は陶磁器の生産を奨励し、いわゆる官窯を創立した。こうして陶磁の黄金時代が出現し、定窯、汝窯、龍泉窯、建窯などの名窯が、いっせいに活動した。この勢いは、南宋から元朝にかけて、一時的に停滞することはあっても、すでに普及し、定着した典雅な陶磁は、元代にいたって染付、辰などの新技法をくわえて、さらに発展していった。北宋陶磁の特色は、時代の文化を反映して、きわめて理想的で、精緻な正確をもっていたが、南宋にはいると、粗製の風があらわれてきたのは、周知のところである。宗・元陶磁に関しては、中華人民共和国が成立して以降、続々として未知の窯址が発見され、旧来の陶磁についての知識は拡張され、また誤りも是正されるにいたった。たとえば、磁州窯系の白化粧陶器、均窯、汝窯などが、今まで知られていたより、より広域にわたって製作されていたことがわかった。たとえば、汝窯とよばれた彫文様の青磁は、従来、河南省の臨汝県とされていたが、新し調査によれば、陝西省の耀州窯、甘粛省の天水県、河南省の宝豊県、広東省の広州市西村窯などでも、類似のものが製作されていることがわかった。また宋代赤絵も、磁州窯といわず、山東、河南、河北、山西などで焼かれていることが判明した。また影青(いんちん)とよばれるもの、天目と総称される陶磁も、もはや単一の窯の製作とはいえなくなった。この種の発見、発掘は、南宋、元代の諸窯についても、かなりの数におよんでいる。宋代に並列する遼・金の二王朝については、図版の関係もあるので、ここではふれないが、それぞれ民族的特質をゆたかにうちだしている。とくに金代の耀州窯の活動は、注目すべきものとされている。
<3.明・清の骨董・古美術について>
建築 明朝は朱元璋によって創始された王朝で、1368年から1662年にわたる漢人帝国である。この王朝の建築としては、大長城の工事が著名である。明の王室は、800年も放置されていた長城を、北辺の蒙古族の侵入をふせぐために大長城を建設した。明の首都金陵(南京)の宮城は破滅したが、それを模した北京の紫禁城で、その概要を推定することができる。北京の西直門外の大正覚寺塔は、西域僧斑迪達がつたえた様式といわれ、1473年に建造された。白大理石の四角な台上に、五箇の塔がたつ特異な様式は、インドのボードガヤー大精舎の模倣であることはあきらかである。陵墓建築には、北京の北、昌平県にある明の十三陵に代表される。長陵の石牌坊(1540年建設)は、十三陵の南端にあたる。長陵の稜恩殿は、正面67メートルの大殿堂である。中華人民共和国政府は、この十三陵中の定陵を発掘し、万暦帝の地下宮殿とおびただしい副葬品を発見し、これを公開していることも注目される。清朝(1616-1911)の建築は、北京に現存する広大な故宮にまず指を屈しなければなるまい。建造物中には、明代の遺構も多く、宮城は紫禁城とよび、周六里(約3.2キロ)で、高さ10メートル、幅8メートルの城壁をめぐらす大建築である。また紫禁城と景山の西側に西苑があり、南北に太液地が横たわり、池は北、中、南の三海にわかれている。なお、瀋陽にも、清初の故宮の遺構がある。離宮には?和園があるが、これは乾隆年代の清奇園を、西太后が再興したものである。また壇は中国固有の祭天の儀式を挙げるところで、1896年に再興、完成したものが現在の天壇である。その他、廟、道観、仏寺庭園などの遺構は、この段階になると、かなり遺存しているが、いまは省略することにする。
絵画 明代初期には、元末四大家直系の南宗画派の画家たちが活動したが、明朝の統治体制が確立してくると、馬遠、夏珪風の亜流である浙江画派が、宮廷によって一時支持されるようになった。明の中期ごろには、仇英・唐寅らが、古い院体画の復興をめざしたが、他方、南宗画は、沈周(石田)とその門下の文徴明の二人の文人によって、ふたたび勢をえてきた。浙派を北宗画派とし、沈周、文徴明の画系を呉派とよび、明末から清代にかけての南宋山水画の一大潮流をつくるのであった。明末の董其昌は、書画にたくみで、文徴明につぐ名声をえたがかれはその画論において南北二宗の別をたてて、中国絵画史に系譜をつくり、後世に大きな影響力を保持した。花卉雑画では、沈周の自由な達意、その弟子の陳淳の創意をみとめることができるが、とくい徐渭(文長)は、きわめて特異な性格の人物で、詩文書画、音楽戯曲の才があり、その花卉雑画は、自由奔放で、かつすぐれた描写力をそなえ、清代の文人画につよい影響をあたえた。明代文人の花卉雑画の展開は、四君子(梅、竹、蘭、菊)のモチーフを完成し、四君子に托して画意を述べ、またそれによって筆墨の基本用法を学ぶといった風が、明末には行われるようになった。清代にはいると、董其昌の影響をうけついで、清の四王とよばれる文人画家たちがあらわれる。四王の筆頭は王時敏で、時敏と親しい王鑑、以上の二王の弟子の王?(おうき)、そして時敏の孫にあたる王原祁の四人である。四王の画風には、董其昌の思想の形式化があり、その点、抹梢的なきらいがあったが、時敏の弟子の呉歴、王きの親友の?寿平うんじゅへい(南田)は、むしろ独創性がみられた。以上の六人を、世に四王呉?とよんでいる。清初には、すぐれた南宗画家、王鐸、きょう賢などをあげることができるが、また梅清、道済(石濤)、こん残(石渓)らの画僧が登場した。かれらは明朝の遺民として、清朝に迎合することを拒み、抵抗の姿勢をとり、山水、花卉に鬱憤を托した。山水画の石濤と、花卉雑画の八大山人は、明の宗室出身といわれ、慷慨を筆端にこめ、伝統にとらわれない自由な画境をつくった。いったい、中国絵画には、古くから老荘的モチーフが愛好されてきた。それは仙人、隠棲の生活を描き、花卉雑画を仙境になぞらえて、現世への憤懣を托すといったものであった。そしてそれは、南宋画の詩境である壺中天への憧憬につながり、内部の精神的自由にのがれて、外にむかって開放を断念するといったニヒリズムにも通ずるものがあった。このような心的開放への傾向が、清朝中期には、揚州八怪を生み出すのである。揚州は米塩の集散地で、自由な活気ある商業都市で、ここに期せずして各地の画家が流寓した。八怪を中心とする揚州画壇は、清末の太平天国革命によって衰退し、以後は上海を中心として、趙之謙、虚谷、呉晶碩らが、文人画を代表する。そしてその殿将として斉白石が、清末以後、その伝統をまもる。趙之謙、呉昌碩は、ともに北碑金石の書法を復古した篆刻家で、画格も高く、遠く日本にも知己をもった。なお北京の宮廷には、画院は置かれなかったが、画工は宮廷にかかえられ、職に従い、高官で絵筆をよくするものは、皇帝に側近として仕え、古画の鑑識、保存などにもあたった。