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<中国骨董・古美術>-先史より唐まで       宋代から現代まで

はじめに

骨董・古美術史は考古学と密接な関係をもっている。なぜならば、およそ骨董美術史の扱う資料は、地上に残存するいくらかのものを除くと、他はすべて地中から掘り出されたものだからである。特に先史から古代にわたる時代については、とくにその感が深い。戦前では、そういう出土資料は、ほとんど盗掘されたものばかりであった。ところが、中華人民共和国が成立してからこの何十年かの間に各地で重要な遺跡がぞくぞくと発掘され、莫大な数にのぼる遺物が出土している。その結果、中国の考古学は飛躍的な進歩をとげ、面目を一新するにいたった。そしてこのことは、骨董美術史の分野にも、少なからぬ影響を与えているのである。

<1.先史の骨董と古美術>
美のあけぼの まだ文字がなく、したがって何の記録も残っていない太古のことを、ふつう先史時代とよぶ。またこの時期は、考古学のうえからいうと、多少の例外はあるけれども、だいたい石器時代に相当する。中国では、数十万年の長さにわたる旧石器時代を通じて、美術品とみられるものは、ほとんどつくられなかった。しかし、今から六、七千年前の新石器時代になると、はじめて美術の対象となるような作品が現れてくる。それはいろいろの形をし、さまざまな装飾を加えた「土器」であった。
 現在より気温が高くて雨量も多く、低湿地に湖沼と密林が広がっていた揚子江の流域にくらべて、黄河の流域は乾燥しているうえ、肥沃な黄土と適度の雨量に恵まれ、農耕が発生するための条件をよく備えていた。つまり華北における新石器時代は、農耕の開始とともに幕をあけたといえよう。そして、中国古美術史の第一項も、この辺からはじまることになるのである。
先史土器の素朴さ 新石器時代の人たちがこしらえた器具のうち、石器や骨角器のように実用一点張りのものには、なにも装飾が施されていない。また、彼らがつくったであろうところの木器や、着たであろうところの衣服は、かりに文様などがついていたとしても、現物が一つも残ってない以上、ここでは論外である。というわけで、私たちが古美術の対象として扱いうるものは、結局のところ「土器」しかない。しかもその土器のうちでも、彼らが意識して装飾を加えたのは、実用的な縄蓆文時ではなく、半ば観賞用的な彩陶や黒陶であった。実用のなかから芸術は生まれない。農耕によって生活にある程度の余裕が生じたとき、彼らの美意識は、はじめて表現の能力を与えられ、美しい土器のかずかずを生み出してきたのである。それはちょうど、楽しいとき自然に歌声がわき、手足が舞いだすのと同様であったろう。
 彼らは、自分たちが美しいと感じたものを、土器の形や装飾の上にあらわそうと努力した。それはまだ、個人の芸術意欲が社会的なまたは宗教的な制約を受けていない、きわめて素朴な時代のことである。彼らが美しいと感じて作り出した造型は、幾千年後の今日にあっても、普遍的な人間性を媒介として、直接私たちの心に迫る何物かをもっている。原始ないし古代の作品のなかに、不思議と近代的感覚に通じるものが少なくないのは、おそらくそのためであろう。彩陶の面に描かれた流れるように美しい曲線文などは、いつの時代にも、いかなる民族によっても、愛好される文様なのではあるまいか。西アジア方面の先史時代の彩陶に、中国の彩陶の文様と似たものがよくみられるのも、西から東への影響というよりはむしろ、同じ原始農耕民としての嗜好や傾向がが、その共通の基盤になっているのかもしれない。なお彩陶より少しおくれて流行した黒陶も、黒一色に磨きたてられた簡素さのうちになかなか捨てがたい趣がある。大量生産が生んだ美しさとでもいおうか。ろくろで仕上げられた器体は、総じて薄手で軽く、鋭い屈曲の線がみごとである。
流行のかげに 先史時代のひとたちは、芸術活動をなすにあたり、流行というわくに縛られていた。流行は一つの様式を生み、その様式にかなった作品は流行する。しかし、そこには模倣がくりかえされるだけで、独創はない。かりに様式からはずれたものをつくった人があれば、ほとんどすべての場合、その作品は模倣されることなく、一代かぎりで亡びてしまう。どんなにすぐれた作品でも、社会に受け入れられなければ、仕方がない。中国で彩陶を作った人たちは、原始農耕民の常として、点と線の組み合わせからなる幾何学文様を愛好した。この観念的で象徴的な文様は、原始狩猟・遊牧民の愛好した直線的で写実的な動物文様と、まさに著しい対照をなしている。ところが中国の原始農耕民のなかには、そうした流行の波にさからってまでも、自己の創造性を発揮しようとする者がいた。たとえば二、三の彩陶には、人面・魚・蛙などの形が描かれているし、また、この時期の珍しい彫刻の例として「みみずく」の顔をかたどった円形の土製品、人面や「やもり」の形を浮彫りにした土器片がでている。これらの作品は、たとえ当時の人たちに認められなかったにしろ、独創力の豊かさと型破りの勇気を示す点で、まことに愛すべき傑作である。しかし、先史時代に現れた写実性の萌芽が、直接、歴史時代の写実性の源流をなしているというのではない。その間には、確かに大きい断層がある。もし両者を結びつける何者かがあるとすれば、それは民族が潜在的にもつ一つの傾向ないしは能力というべきものであろう。

<2.殷・周の骨董と古美術>
怪奇と幻想の世界 殷と西周の美術を代表するものは銅器である。これは青銅製の特殊な容器で、王侯・貴族が祖先の霊を祭るときに用いた。先史土器が素朴そのものであったのにくらべて、銅器の方はいかにも複雑怪奇きわまるものである。そこには「美」という通り一辺の概念は通用しない。いいかえれば、単純な美しさ、直線的な美しさをあらわしたものではない。あたかも、分裂してやまぬガン細胞の執拗さにも似て、ある特別の効果をねらいながら、変形に変形を重ねていった、古美術界の怪物である。その効果とは青銅の地金を支配していた支配階級のために、彼らの超人的な権威を象徴し、見る人たちをその前に屈従させる、一種の催眠術的な効果であった。荘重な雰囲気をかもし出す器形と、空想的な動物を極端に象徴化した奇妙な文様は、それをねらうための演出にほかならないと考えられる。したがって、こういう特殊な世界に住んでいた人たちだけが、銅器の造型について、真の意義を理解しえたであろう。べつの世界の窓からながめる私たちの目に、それがいかにも怪奇にうつり、審美的な評価が一定しないのは、むしろ当然といわなければなるまい。しかし、それにもかかわらず、殷と西周の銅器はみごとである。文様表出の厳正さと鋳上りのすばらしさは、まさに驚くべき段階にあり、今日の技術をもってしても、つくることが不可能とおもわれるものも少なくない。じつにこれらの銅器は、何代もかかって分業的に、技術の練磨に生命をかけたところの、工人たちの努力の結晶であった。
土の美術の展開 チャイナといえば陶器をさすように、中国の陶器は昔から世界一であった。また瓦や磚(煉瓦)が最も発達したのも、やはり中国である。中国文明は、華北の黄土地帯に生まれた。「土の美術」、それは黄土の上に生き、黄土の中に死んでいった人たちが残した遺産である。殷・周時代は、こうした「土の美術」についてのあらゆる可能性が追求され、そして豊かな実を結んだ時代である。
 まず先史時代の縄蓆文土器は、歴史時代に入ると技術的に進歩し、灰色に焼きしめられて灰陶となった。この灰陶は、煮たきに使う実用本位の土器で、あまり美術の対象にはならない。しかし、いっぽうでは、白陶・釉陶・硬陶などという、ぜいたくな土器もつくられた。白陶は殷代の貴族たちが用いたもので、文字どおり白色を示し、表面に銅器の文様と似たようなものが刻まれている。釉陶すなわち釉薬(うわぐすり)をかけた土器は、硬陶と関連して現れた。つまり焼くときの温度が高いため、粘土が硬く焼きしまり、その上に降りかかった灰が溶けて、自然の灰釉を生じたものである。色は緑・褐・黒などさまざまで、なかには意識的に灰と泥をまぜた本格的な釉薬もみられる。要するに中国陶磁の技術的基礎は、早くもこの時代に確立されたといっても過言ではなかろう。
 瓦は西周時代に現れ、戦国時代になって普及した。軒丸瓦の端をふさぐ瓦当は、はじめは半円形で「半瓦当」とよばれ、燕や斉の国のものには、いろいろの文様があらわされている。磚も戦国時代ごろから使われるようになったらしく、斉や魯の国の都あとからは、美しい押型文を施した建築用の磚が出ている。このほか、同じく戦国時代の遺物には、「黒陶明器」といって、墓に納める目的で特別にこしらえた黒陶製の土偶や器物の模型、さらには青銅器をつくるための精巧な鋳型など、土を材料とした傑作が少なくない。
 土から美を生み出すこうした技術は、その後二千余年の歳月を通じ、脈々と受け継がれ、すばらしい作品を生んでいるのである。
長沙と信陽 新中国になってから、各地で戦国時代の墓が発掘され、かずかずの珍しい副葬品を出した。それらのうちでもとくに注目されるのは、湖南の長沙と河南の信陽にある楚の国の墓であろう。長沙では二千基に近い墓のなかから、各種各様の遺物、たとえば棺の底に敷く彫刻した木版、黒漆塗りの鞘に嵌まった銅剣、黒地に朱と黄で雲竜文を描いた革の楯、当時の風俗を示す男女の木偶、絹地に竜虎と女人を描いた絵、文字を書いた竹の札、それに使った毛筆、木製の瑟(大琴)、天秤と分銅などが出てきて、人びとの目を驚かした。また信陽長台関の一・二号墓からは、異様な鎮墓獣(墓に入れる魔よけの怪獣像)をはじめとして、みごとな漆塗りの木彫が多数発見されている。これらは、楚における美術工芸の水準を示すばかりでなく、その国の人たちの生活を現実面と精神面から追求するうえに、きわめて有力な手がかりを与えるであろう。「サルが冠をかぶったようなものだ」とさげすまれた楚の国の人々は、意外にも中原に劣らぬ造型文化をもっていたのである。
象徴と写実 一般に農耕民の美術は象徴的であり、狩猟・遊牧民のそれは写実的であるといわれる。中国の原始農耕民たちが、その彩陶に好んで象徴的な文様を施したのは、けだし当然のことであった。しかし、彼らはまた同時に、動物などの形を写実的に描く能力をもっていたのである。ところが殷代になると、動物の文様はあるとはいえ、その多くはとうてつや竜などという、途方もない空想の産物と化してしまっている。また、玉(ぎょく)や石の彫刻などにあえあわされている動物の形も、みな写実というにはほど遠い。殷から西周にかけての美術は、総じて象徴化と様式化に富み、個性的な美しさと軽快さに欠けている。このような現象がおこったのは、殷・周王朝の絶大な権力が、支配理念のもとに美術を統制し、自由な表現と写実的な描写を許さなかったからであろう。
 ところが戦国時代になると、様子がだいぶ違ってくる。例えば、戦国式の銅器では、殷や西周の銅器と趣きを変えて、写実的な鳥獣文、軽快な狩猟文や宴楽文を施した例がみられる。また斉の国の半瓦当には、美しい樹木文様や躍動的な動物文様が表されているし、黒陶明器のなかでは、明るい表情に満ちた舞女俑の群が目につく。さらに漆器の彩文、獣形土管、青銅馬、木彫鳳凰など、写実的な要素をもつ作品が少なくない。よく引かれる話であるが、「韓非子」という書物のなかに、「誰でもしってる犬や馬は最も描きにくく、誰も知らない鬼や化物は最も描きやすい」という意味のことがしるされているのも、当時における写実の精神を伝えている点で注目されよう。ところで、中国の古代古美術におけるこのような著しい変革は、いったいどうしておこったのか。その第一の理由としては、北方美術からの影響があげられる。つまり、遊牧民の美術にみられる生動的で写実的な技法が、在来の中国古美術に正新の気をもたらしたのであろう。つぎに第二の理由としては、社会情勢の変化が考えられる。すなわち戦国時代には、伝統的な権威が動揺しはじめ、思想や言論の統制がゆるみ、庶民の動きが活発になってきた。漢民族がひそかにもちつづけてきた芸術意欲は、ここに長年の重圧から解放され、ふたたび表現の自由を獲得するにいたったのであろう。

<3.漢・六朝の骨董と古美術>
古典美術の完成 戦国古美術にみられる新しい傾向、軽快性と写実性は、引きつづいて漢代の作品にも認められる。たとえば、漆器の文様が示す流麗な運筆、古墳の壁画や画像にみられる動的な線などは、いずれもその流れを汲むものであろう。また。四川の渠県にある有名な沈府君石闕には、一匹の獣が足をふんばって、他の獣の尻尾をひっぱっているユーモラスな光景や、はだかの男性が弓を満月のようにひきしぼって、のきばにとりついた獣をねらっている有様が、いかにも生き生きと表現されている。しかしいっぽう、漢代の古美術品には、殷以来の伝統を引く静的で様式化されたものが、案外多いのではなかろうか。無表情にたたずむ瓦俑の群や、型にはまった鏡背の文様などは、まさにその例とみられる。
 ところが、それにもかかわらず、私たちが漢代の古美術に大きな魅力を感じるのは、右の新旧二つの表現形式が、不思議な調和を保っているためかもしれない。つまり、写実がたんなる写実に終らないで、その裏に何か象徴的なものを含んでいるようにみえる。そこにただようところの、いうにいわれぬ力強さと幽幻さこそ、漢様式の真髄であり、中国古美術の精華なのではあるまいか。
 漢代の工芸品は、帝室と貴族の要望に応じ、工官(官営工場)の手で量産された。量産といっても、粗製濫造の意味ではない。規格が統一されていて数が多いということだけのことで、製品そのものは一つ一つりっぱなのである。つまり漢代においては、国家が直接、美術活動のスポンサーとなり、儒教にもとづく統一の理念を、そのうえに反映させていたとみられよう。さればこそ、漢が亡びて動乱の時代を迎えると、各種工芸品は、量質ともに衰退に向かうのである。
墳墓の装飾 戦国以前の墓は、すべて土坑墓か木室墓であって、その内部にも地上にも、ほとんど装飾らしいものは施されなかった。ところが漢代になると、木室墓がすたれた代りに、石や磚で墓室を築き、その壁面に絵を描いたり浮き彫りを加えたりすることが盛んになった。また、地上に
石闕・石人・石獣などを置く風習がはじまった。
 文献によると、漢代には肖像画などがよく描かれたようであるが、そういうなまの絵画は地上に残っていない。したがって、名もない画工の手になったものとはいえ、墓中の壁画は貴重である。遼寧遼陽では石の面に、遼寧営城子・山東梁山・河北望都などでは
磚に漆喰を塗った上に、それぞれ壁画が描かれている。おもな主題は人物や鳥獣であるが、遼寧方面のものはとくに内容が豊かで、それらのほかに車馬・楼閣・倉庫・樹木・雲気・軽業なども少なくはない。いっぽう、墓や祠堂を構成する石材に浮彫りしたものを画像石とよぶが、これは彫刻というよりむしろ、絵画の資料として扱うべきものである。題材は壁画よりはるかに豊富で、ほとんど自然界・人間界の事象万般にわたり、あたかも当時の図解百科の趣きを備えている。しかし、これらの壁画といい画像といい、その手法はまだ全般的に稚拙の感をまぬかれない。ただ四川方面の画像が、透視法や遠近法の点でとくにすぐれているのは、描写力の地方性を示すものとして注目される。
 つぎに石闕とは、漢代から六朝時代にかけて、宮殿や墳墓の前にたてられた、石の門柱のようなものをいう。漢代の資料は、四川と山東に多く、いずれも四角い石柱の上に、屋根に模した蓋石をのせており、表面に人物・鳥獣・車馬などの画像を浮堀りしている。四川方面のものは、石柱の面や組物の間に、半肉彫りの人馬や鳥獣をあらわしているが、その写実的な技法はまことにすばらしい。また秦漢時代以後、宮殿や墳墓の前には、しばしば石彫の人や獣が置かれた。多数の石人・石獣が残っているので名高いのは、陝西興平にある前漢の将軍霍去病(かくきょへい)の墓であるが、このほか山東や四川の各地にも、かなりの資料がみられる。たとえば、四川雅安にある高頤(こうい)の墓の石虎は、胸の両側に翼を備えており、全身に力が満ち溢れている。
 右のような墳墓内外の装飾は、六朝時代になっても、引き続いて行われた。たとえば、河南?県で発掘された南朝の墓では、武人と飛天を描いた壁画や、壁に嵌めこんだち着彩
磚がみられるし、南京西善橋で発掘された東晋の墓では、磚壁の上に、竹林七賢を含む八人の像が描かれていた。また南京と丹陽の付近にある南朝の陵墓には、石闕や石獣がたくさん残っている。それらのうちでも、とくに石の獅子は、そのボリュームと堂々たる姿勢に、圧倒的な力強さを感じさせるであろう。
実用器から明器へ 漢時代のすぐれた工芸品は、朝鮮の楽浪などの例外を除くと、おもに前漢の墓から出土する。戦国以来の厚葬の風は、前漢になってもしばらくは衰えず、一部の人たちは依然として、豪華な墓に実用器を主体とする副葬品を納めた。それらのなかでも漆器の類は、とくに四川方面の工官でつくられ、このうえもなくぜいたくな什器として珍重された。当時の「塩鉄論」という書物に、「漆杯一の値は銅杯十にあたる」としるされているのは、それを示すものである。しかし人智が進むにつれ、やがて人びとは厚葬・久喪の幣をさとり、しだいに薄葬におもむいていった。こういう傾向は、先進地区である政治・経済の中心では、すでに前漢のうちに現れたが、後漢に入ると全国的に徹底し、副葬品はほとんど瓦製明器に限られるようになってくる。瓦製明器とは、墓のなかに納めるため、土を焼いてつくった器物の模型で、死者があの世で生活するのに必要な、一切の家具調度品を含んでいた。人や動物の形に焼いたものは土偶といい、人の像だけはとくに瓦俑あるいは陶俑とよんでいる。これらのうちには、しばしば緑釉や褐釉をかけたものもあり、量産された規格品であるにもかかわらず、その素朴さゆえに、けっこう鑑賞に値するものが少なくない。
 六朝時代の明器・瓦俑の類は、ほぼ漢の様式にならったもので、とくに著しい発展のあとはないようである。ただ北朝系の瓦俑などは、表情が生き生きとしてきて、喜怒哀楽の変化をみせるようになった。また、南朝系では青磁の発展に伴い、明器のうちにも青磁をかけた精巧な作品が現れている。
石窟寺院の開鑿 この時代について特筆しなければならないのは、仏教美術の誕生である。そしてこれは、石窟寺院の開鑿と関連が深い。石窟寺院とは、石壁に横穴を穿ち、中央に堀り残した柱と周囲の壁に、仏教的な彫刻と絵画を一面に施したもので、それまで中国にまったくなかった新しい構築物である。もともとインドに発展したものであるが、仏教に伴ってガンダーラに伝わり、そこからさらに中国に波及した。中国では、まず四世紀の半ばころ甘粛の敦厚でいわゆる千仏洞の開鑿がはじまり、それから一世紀ほどたって、北魏の文成帝は、都の平城(山西大同)からほど遠くないところに、雲岡石窟を開いた。四九四年に北魏が都を洛陽へ遷すと、工事の重点は付近の竜門石窟に移り、またそのころから河南の鞏県(きょうけん)石窟が、さらにややおくれて、河北・河南の省境にある響堂山石窟や、山西太原の天竜山石窟などが開鑿された。新中国はこれらの諸窟を調査して保存を図るとともに、甘粛を中心とする地域で、あらたに多数の石窟を発見した。それらのうちでもとくに重要なのは、臨夏の炳霊寺、天水の麦積山、武威の天梯山などである。なお以上の石窟の多くは、隋・唐時代まで工事が続けられた。
 石窟美術の源流はインドやガンダーラにあるといっても、中国のひとたちはそれにこだわらない表現の自由さをもち、完全に中国化した仏像をつくっている。いいかえれば、彼らは自己のつちかってきた絵画・彫刻の技術を基礎にして、西方からの様式をとりいれ、それを消化してつくして新しい境地を開いたのである。生硬さ、ぎこちなさを脱しきれないでいた漢様式は、ここに一大発展をとげることとなった。口もとに浮かぶ古拙なほほえみ、生き生きとした身のこなし、密着した衣を通してみえる体のまるみ、流れるように美しい衣紋のひだ、それらは中国の古美術に生命の火をともしたといえるであろう。

<4.隋・唐の骨董と古美術>
李静訓の墓 漢にくらべると、六朝の墓は概して薄葬で、副葬品も青磁などを除くと、あとはろくなものが残らない。ところが、隋・唐になって天下が安定し、経済に余裕を生じてくると、かつての厚葬の風が復活し、墓の内容もふたたび豊富になる。隋の墓といえば、戦前には安陽のト仁墓が知られていたにすぎないが、戦後は新中国の当局の努力により、各地で盛んに発掘されるようになった。それらのうちでもとくに豪華をきわめているのは、一九五七年に西安の玉祥門外で発掘された、薄命の少女李静訓の墓である。彼女は煬帝(ようだい)の姉の孫娘にあたり、大業四年(608)にわずか九歳で世を去ったが、この年端も以下kぬ少女の墓が、何と目を見張るほどすばらしい副葬品に満ちているのである。たとえば、黄金製で真珠や宝石をちりばめられた頸飾り、黄金の腕輪と指輪、金覆輪の玉杯、銀の杯・蓋物・椀、水晶と玉のかんざし、紐に通した瑪瑙(めのう)の小玉、琥珀の飾り、ガラスの壷や杯、青磁や白釉の壷、漆の小箱など、数えあげれば、きりがない。このほか、六十六点にのぼる男女の陶俑、馬・牛・羊・犬などの土偶、家・すりうす・かまど・井戸側などの明器もあった。これらの豊富な遺物は、当時の貴族たちが、いかに派手な生活を送っていたかを、まのあたり示すものである。
 唐になると、厚葬の風はいっそう盛んになり、美しい壁画を描いたり線刻を施したり墓の中から、さまざまの副葬品が出土する。国都の長安(西安)の付近では、総章元年(668)の李爽墓、神竜二年(706)の永秦公主墓と韋洞(いけい)墓、開元十一年(723)の鮮
于庭誨墓、天宝四年(748)の蘇思勗(そしきょく)墓、天宝七年(748)の呉守忠墓などを、地方では河南偃師(えんし)にある神竜二年の崔沈墓などを、その代表的なものとしてあげることができよう。
金工の復活 漢帝国が亡びると、金工は他の工芸とともに、パトロンを失って一時衰えたが、下って隋・唐時代に入ると、ふたたび国家の保護のもとに、官工によって推進されることとなった。前にあげた隋の保護のもとに、官工によって推進されることとなった。前にあげた隋の李訓静の墓から出た頸飾りは、細金細工でこしらえ真珠を嵌めこんだ二十八個の金珠かななっていて、上端に、鹿の文様を刻んだ藍色の宝石をつけた留め金があり、下端に、宝石・黄金・玉などでつくった飾りを下げている。また、西安市東郊韓森寨の天宝九年(750)墓から出た「?球金花」なるものは、細金細工の枠を尽くした花形の留飾りである。深窓の佳人が、髪に飾ったものでもあろうか。この頸飾りといい、留飾りといい、いかにも現代的な感覚をもっているのには驚かされる。
 唐の長安の平康坊から出た七個の鍍金した茶托に、「大中十四年(860)八月造成」の紀年銘が刻まれているのは、この種のものとしては珍しい。西安市郊の韓森寨や八府荘で発見された鍍金の大小銀盤、洪慶村から出た鍍金の銀製蓋物なども、みごとな作品である。なお金工に伴って、漆のなかから金銀の文様片をとぎ出す「金銀平脱」、文様を打ち出した銀板を貼り付ける「貼銀」、貝や青石の薄片を漆で留める「螺鈿」、金属の凹みに琺瑯(ほうろう)すなわちガラス釉を流しこむ「七宝」などの技法も発達し、鏡背の装飾などに適用された。こうして隋・唐時代の金工は、在来の面目を一新し、空前の盛況を迎えるにいたったのである。
陶磁器の発達 隋・唐時代になると、陶磁器の類も著しい発達をとげ、かずかずの優品を生みだした。そのなかでもとくに目につくのは、青磁・白磁ならびに三彩である。青磁と白磁は唐代陶磁の双璧といわれ、南の越州の青磁と北の?州の白磁は、古くから最も名高い。ことに越州窯(浙江の金姚・紹興・温州など)の青磁は、天下第一等の名器とされ、しばしば詩文の対象となった。新中国になってから、青磁や白磁を焼いた窯のあとが、各地で発見調査され、いろいろの新知見を生んでいる。たとえば、江西の景徳鎮勝梅亭から出た唐代の白磁片は、胎土の白度が七〇%に達し、現代の細磁の水準に近づいているという。
 いっぽう三彩は、もっぱら墓中に副葬する明器・陶俑としてつくられた。唐の国運と運命をともにし、盛唐期に現われて栄え、そして消えた。その分析も、当時における政治上の中心地、長安と洛陽の付近に集中している。明器を扱う役所、甄官署(けんかしょ)あたりが、皇族や貴族の葬礼用に焼いたものであろう。三彩とは、原則として緑・褐・白の三釉をさすが、ときには藍彩を使うこともある。青・白磁が千二、三百度の高温を必用とするのに対し、三彩は七、八百度の低火度で間に合う。その作品は、人物・動物・器物百般にわたり、まさに明器・陶俑の最盛期を迎えた観がある。人物や動物は、体の均衡も表情も、写実の精神に徹しており、その表情はまことに妙をえている。美人には、豊満型と痩型の二種があり、前者はわが天平美人の源流をなすらしい。馬は造型的にみて、最も出来がいいように思われる。器物のなかでは、竜耳壷や鳳首壷などがすばらしい。要するにこれらの唐三彩は、はなやかな唐の貴族文化を最もよく象徴するものといえるであろう。
壁画の諸相 すでに六朝時代には、東晋の顧?之をはじめとする文人画家が輩出して、あらたに山水画などの領域を開き、また盛んに画論を展開した。しかしそのころの絵としては、顧?之の「女史箴(じょししん)図鑑」「洛神賦図鑑」、梁の元帝蕭繹の「職貢図鑑」などの模写が残っているにすぎない。ついで、隋になると鄭法士、唐になると閻立本・呉道玄らが現われて腕を競ったが、閻氏の筆といわれる「歴代帝王図巻」は、いまだにその確証はなく、また呉氏の方も、真蹟は一つも残っていない。したがって目下のところでは、周?の「簪花仕女図」(瀋陽博物館蔵)だけが、唐代のものとみられるほとんど唯一の例であろう。こういう次第なので、当時の原画に接しようとすれば、どうしても古墳や石窟の壁画ということになる。
 西安付近の唐墓には、壁画を描いたものが少なくない。すでにあげた李爽・永秦公主・韋洞・蘇思勗の墓などは、その代表的な例である。これらの墓では、概して、天井に日月星辰と四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)を描き、室と墓道の壁に人物・馬・駱駝などを描いてあるものが多い。帝陵に準ずる永奉公主墓の壁画は、最も内容が賑やで、描写も手が込んでいる。韋洞墓に描かれている男女は、いちばん洗練されており、大胆な線に自信のほどがうかがわれる。最も古い執失秦節墓(顕慶三年・六五人)の舞女図は、やや無雑作に描かれているが、体と衣の線が美しい。要するに古墳の壁画は、すべて現実的・写実的であって、空想的・観念的な要素を、ほとんど含んでいないのである。
 いっぽう、敦煌をはじめとする石窟寺院の壁画は、教理というわくに嵌められながらも、現実を多方面にわたって描写している。この傾向は年とともに強まり、幽玄な教養を日常生活で説くようになる。しかし、作者の敬虔な精神活動が反映しているためか、ときには胸を打たれるような美しさにひかれることがある。敦煌第三二〇窟の、花をふりまきながら飛翔している飛天などは、その好例というべきであろう。空中を軽やかに舞う肢体、ひらひらとはためく天衣の端は、まさにこの世のものとも思われない。こうした美しさは、つぎに述べる石彫にも現われているのである。
石彫の変換 中国における石窟美術は、唐代になって完成したとみられる。この「完成」とは、西方からの影響という束縛を脱して、中国自体の様式をつくりあげたこと、また芸術的にみて最高の段階に達し、それより後の時代の追従を許さないことを意味する。菩薩・天王・力士・羅漢・飛天・供養人物などは、もはやすべて現実の人間に近い。菩薩はあくまでも高貴に、天王や力士はあくまでも勇壮に、飛天はあくまでも可憐に現わらせており、洞窟いっぱいに美しくリアルな造像が展開する。高雅な精神に裏づけされた写実主義は、磨きに磨かれた技術とあいまって、作者の心に描く理想像を、そこに遺憾なく表現しているのである。
 つぎに、華表と石人・石獣について一言しておく。唐の諸陵では、参道の入口に華表とよばれる一対の石柱がたっている。上に擬宝珠(ぎぼし)をのせた、八角形の石柱が普通である。また唐代になると、陵墓の参道の両側に、石人や石獣を並べることが盛んになった。西安市の北方にある唐朝十八陵のうち、最も典型的なのは高宗の乾陵と徳宗の崇陵であろう。ことに乾陵では、手前からみて、石の飛竜馬一対、石の朱雀一対、石馬五対、石人十対、石獅子一対が並んでいるほか、外国の酋長の石像が五十三体も残っている。これらのうちでも、胸に両翼を備えた飛竜馬は堂々たる体?を写実的に現した傑作であり、文官と武官をかたどった石人は、服装の各部を忠実に示していて、当時の風俗を知るのに役立つ。なお浮彫りではあるが、太宗の遺愛の名馬を石に刻んだ昭陵の六駿(りくしゅん)も、唐朝美術の白眉として名高い。
 石窟寺院のうちには、宗・元時代ごろまで開鑿がつづけられたものもある。また墓前に華表を立て、石人・石獣を並べる風習は、はるか明・清時代まで続いた。しかし衆目のみるとおり、唐より後のものは、芸術的にずっと見劣りがする。つまり石造美術は、唐で発達の頂点に達し、それから後は退歩の一途をたどったといえるであろう。

世界美術史より

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